Trust
『信頼』”Trust” by Hernan Diaz, 2022
ヘルナン・ディアスは2017年のデビュー作『In The Distance』でピュリッツアー賞やペン・フォークナー賞の最終候補に残った実力派。『Trust』は長編2作目にあたる。
眩惑のメタフィクションだ。
第一部は1938年に書かれた小説『Bonds』で始まる。主人公は1920年代のウォールストリートで莫大な富を築いた投資家ベンジャミン・ラスクと慈善家の妻ヘレン。天才的な投資センスで成り上がっていくベンジャミンの影で、精神を病んでいくヘレンの光と影の物語。『華麗なるギャッツビー』を思わせる、ドラマチックな約120ページの中短編だ。
第二部はアンドリュー・ベヴェルという男の『我が人生』という自伝である。アンドリューも1920年代のウォールストリートの天才投資家であり、妻のミルドレッドは病弱な慈善家である。ふたつの物語は似ていているが細部や結末が異なる。この自伝の文学性は明らかに第一部の小説より劣っており、ところどころ完成していない部分がある。草稿のようだ。
説明なく置かれた二つの矛盾する物語が何であるのかはブルックリン出身の若いライターアイダ・パーテンザの回想録である第三部で明らかになる。第一部も第二部も読者を惑わす意図を持って書かれていることを読者は知る。そこからは何が真実で何が虚構なのか読んでいる内容を信頼(タイトルのtrust)することができなくなる。
ヘルナン・ディアスの筆は変幻自在だ。第一部の作中作『Bonds』がとにかくよく出来ている。ここだけ切り出しても通用する文学的完成度がある。この第一部がとても魅力的なので、それが嘘かもしれないというメタな展開に読者は引きずり込まれていく。そして経営者の自伝の第二部やアマチュアライターの回想記である第三部は、敢えて文章の品質を落とすことでリアリティを与えている。異種の文体の書き分けが見事である。イアン・マキューアンの『贖罪』を彷彿とさせるメタナラティブの秀作だ。